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新しいジブン発見旅-櫻井麻美さんのニチコレ(日日是好日)第22話
心をほどき、余白を生み出す 海野宿『上州屋』で自由な“とき”を過ごす旅

歴史あるまち並みの中で、心をほどく“とき”を過ごす。海野宿にオープンする上質な一棟貸し宿『上州屋』、一泊二日の自由への旅。

更新日:2023/10/18

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余白から生まれるもの

 

文を書いたり、絵を描いたり。何もない場所から何かを作り出すときには、余白が必要だ。ぎゅうぎゅう詰めのスケジュールの合間には、良い言葉は出てこない。いかにして認められるかを考え始めたら、良い線は引けない。うまくいかないとき、私はよく、全てをリセットする時間を取るようにしている。知らず知らずに押し込まれていた狭い場所から、気持ちよく息ができるところへ自分を解き放つために。

旅はわたしにとってその一つの方法だ。そこまでの距離とか、滞在時間とかは大して関係ない。日常から切り離される体験のことを、わたしは旅と呼んでいる。そこでは、仕事のスケジュールとか、自分に対する評価を考える必要がない。全てから、自由だ。
そんな自由の中に漂っていると、自然と内側からふつふつと沸き起こってくる衝動に気づく。それは、止められないし、きっと、止める必要もないのだろう。そのままに手を動かし、形にしてみれば、気づけば新しい何かが目の前にできあがっている。今まで全く思いもよらなかったものが生まれるのだから、余白とはやはり、源泉なのだ。

そんな余白を生み出すための空間が、海野宿に新たに生まれるという。風情溢れる景色を眺めながら過ごすなんて、想像しただけで贅沢だ。
どんな風に過ごそうか胸を高鳴らせながら、手帳に宿泊日程を書き込む。日々の仕事をこなしながら、指折り数えて待ったその日。残っている仕事があるような気もするが、一旦そのことは忘れることにした。夏の暑い日差しの射す午後、一泊二日分の荷物の入ったバックを手に家を出た。

サウナと図書館を併設したこだわりの空間 海野宿『上州屋』

エントランスを抜けると広がる庭園

サウナと行き来できる水風呂とシャワー完備

扉を開けると本格的ロウリュサウナ

ヒノキの香りと窓から射す光がとても良い

伝統的な家屋の重厚感は唯一無二

部屋の中から庭園を眺めよう

吹き抜けとロフトがあるこだわりの内装&インテリア

表通りに面した外観ももちろん美しい

東御市、海野宿。400年前に宿駅として開設された、美しいまち。江戸時代と養蚕で栄えた明治時代の気配が残る建物が立ち並んだ道は、何度見てもため息が出る。
海野宿では今、アートやクリエイティブをキーワードに、革新が起き始めている。以前紹介したギャラリー、『A COURTYARD』と共にその一翼を担うのが『上州屋』だ。明治初期に建てられた建物をリノベーションして、8月から一棟貸し宿をオープンする。(彼らがめざす未来については、過去の記事「伝統美と革新 海野宿×アートの可能性とは」をご参照いただきたい。)

夏休みシーズンのこの日は、いつもより人通りが多い。遠くから来た人たちの解放感あふれる楽しそうな表情を見ると、こちらまで楽しくなってくる。台風の影響か風が強く、道にゆらりと柳が揺れていて、暑い日差しの中でも彼らだけが涼しげに見える。

景色を楽しみながら通りをぶらぶら歩いていたら、風で雨が運ばれてきて、顔を雫が濡らした。見上げると、空は晴れている。天気雨だ。道にいた子どもたちが、急いで走り出した。手には、ヨーヨー。彼らが弾む度に、びよんびよんとゴムが伸びる。家に着くまでに、どうか、破裂しませんように。
私もそろそろ、宿にチェックインすることにしよう。表通りからではなく、裏通りから宿に入る。人通りは少ないが、田んぼが見渡せる素敵な道だ。頼もう、と堂々と入るのではなく、ひっそりとした入り口から、ドキドキしながら入るのが好きな私にとって、この演出はぐっとくる。

宿に入ると、『上州屋』の浅川さんが、いらっしゃいませ、と迎え入れてくれた。エントランスには石畳が敷いてあり、中へと客人を誘う。敷石に誘導され視線を前方まで移すと、信楽焼の水風呂が置かれた庭園が目に飛び込んできた。少し傾いた日光に楓の緑が照らされて、影がきれいに映し出されている。外の世界と一線を画す風景に、つい感嘆の声が出る。

「ここの入り口から、サウナと行き来できるんです。」と木目が美しいコンパクトなドアを開けた。その瞬間、ヒノキの香りと熱気が溢れ出る。中を覗くと、本格的なロウリュサウナ。この二か所だけでも、永遠に過ごせそうだ。もちろん、庭に置いてある椅子で外気浴もできる。宿に足を踏み入れて早々に、完璧だ、と思った。

浅川さんに促され、ウッドデッキを上がり、母屋へ。中に入ると、吹き抜けになった広々とした空間が迎え入れてくれた。DIYも含めて浅川さんが手がけた洗練された上質な内装には、細部までこだわりが散りばめられている。照明やインテリアはもちろん、扉を開けないと見えないところまで行き届いていて、見つける度にその細やかさに驚かされる。
高い天井と階段が続くロフトを見上げれば、建てられた当初の木材が建物を支えている。歴史を背負ったその重厚感と現代的な美しさの融合が、スタイリッシュなのになぜか落ち着くこの居心地の良さを生み出しているのだろう。建物内からは、格子越しに海野宿の道と柳が揺れるさまを見ることができ、まるで絵画だ。ずっと眺めていたい。

色々なところに目移りしてしまい、浅川さんを質問攻めにしてしまった。私の矢継ぎ早な質問に全て丁寧に答え終わると、どうぞ、ごゆっくり過ごしてください、と彼は微笑んだ。ふと我に返って、ここに来てからまだ一度も腰を下ろしていないことに気づく。(日常でもこんな調子なので、余白がなくなってしまうのだ。)
浅川さんを見送りながら、一度落ち着こうと思い、荷物を置いて、椅子に座って庭を眺める。一息ついてぼんやりしていると、蔵の中にしつらえられた図書館があることに気づいた。肝心なところを、まだ見ていなかったではないか。すぐさま立ち上がり、再び庭へ出た。

ここは、“ほどく”ための場所

庭園の土蔵をリノベーションしてしつらえた図書館

中に入るとしっとりと読書に浸れる

夕飯は東御市のフレンチレストラン『sens』のデリバリーをオーダー

夜の明かりが灯された庭園を眺めながらの夕食も最高だ

一日が終わってしまうのが名残惜しい

宿の中を夜の光が美しく照らす

庭にあるのは、水風呂だけでない。築150年ほどの土蔵の中にしつらえられた図書館は、様々なジャンルの本が選書されている。土蔵の中は、しっとりと落ち着く。もう、雨は止んだようだ。高いところに備えられた窓から漏れる西日と、床を踏むときの板の音が、読書へと気持ちを自然と誘う。ここに入るや否や、浮ついていた心も、不思議とすっかり落ち着いた。本を選び、アンティークな椅子にじっくりと腰かける。時たま庭を眺めるのも、良い。普段とは違う“とき”のゆるやかな流れに、ただ身を任せる。

どれくらいページを読み進めただろう。読書に耽っていると、足音が聞こえた。浅川さんが夕飯を運びに来てくれたようだ。気づかぬうちに、時間が経っていた。日も沈みかけ、空が暗くなり始めている。母屋に戻り夕食をとることにしよう。
夕食は、色々な形態を選ぶことができる。シェフを呼んでキッチンで料理してもらう、贅沢なひとときをさらに彩るサービスもあるそうだ。今夜は地元レストランのディナーのデリバリーを手配してもらった。東御市のフレンチレストラン、『sens』。並んだ器と料理に、一気にテーブルが華やぐ。美しい。前菜からメインまで、一堂に会すると、圧巻だ。

誰かと一緒に食べるのも良いが、実は、一人で食べる食事も好きだ。その理由は、目の前の食材に思い切り集中できるから。一つ一つの野菜をフォークに刺し、口に運ぶ。咀嚼する。その歯ざわり、噛む度にしみ出す瑞々しさや、大地で育まれた自然の味、それらを調和させるソース。瞼を閉じて味覚に集中を向けて、じっくり堪能する。体は喜び、心もすっかりゆるむ。いつもより時間をかけて夕食を頂くと、すでに外には星が光っている。庭園には明かりが灯されていた。

ここ『上州屋』では、色々なものを“ほどく”ことができる。心や体はもちろんのこと、流れる時間さえも。江戸時代から続くこのまちの持つ時間の概念は、私たちの日常を遥かに凌駕する。ここに来れば、日々の小さなあれこれは、自然とふんわりとほどけ、柔らかな絹の糸のように流れ出す。なににも縛られていない自由な状態では、体験するすべてのものが、ゆるやかに内側に染みわたっていく。その感覚が、心地良い。

ぼんやりと食事の余韻を味わっていたら、ご近所にある『A COURTYARD』の中野さんからメッセージが送られてきた。今日、ここに宿泊することを伝えていたのだ。やりとりの後、少しすると彼女が『上州屋』まで遊びに来てくれた。
堅苦しい仕事の話はせず、プライベートなことや、それぞれが持っているビジョン、好きなものについてなどを、とりとめなく話した。こういうふんわりした時に、誰かと前向きな話をするのは、とても良い。案の定、素敵な夜だった。
彼女は別れ際に、今年出始めのシナノリップをプレゼントしてくれた。一人になった部屋で、テーブルライトに照らされてつやつやと光るそのリンゴを眺める。おしゃべりした後の高ぶった気持ちを少し落ち着かせるために、寝る前に少し本を読もう。昼とは雰囲気が少し違う庭へ出て、図書館で本を一冊選び、テーブルのリンゴの横に置く。外には秋の虫の声。この夜が終わってしまうのを名残惜しみながら、ゆっくりとページをめくった。

自由を再確認する、旅の朝

朝起きてすぐに目に入る格子越しの朝日

すがすがしい空気が楽しめるプライベート空間でまったり

ブラインド越しにゆれる柳の影につい見とれてしまう

今度来たときはサウナを満喫したい

朝。まだ目覚め切っていない状態でロフトに敷かれた布団から起き上がると、格子から入る光が板の間に規則的な線を映し出していた。しばらく見とれた後、それに触れたいと思い窓の方へと這い出した。外には近所に住んでいると思われる人が散歩をしているのが見え、板の間には私の影が映し出された。

旅先での朝は、自分を再確認するためにとても重要な時間だ。朝起きて、“いつもと違う”場所にいることに気づくまでの間、私は何者でもない。この時私は、全てから自由になっている。真っ白な存在だ。
ここが“旅先”であると認識するとき、少しずつ、“日常”を思い出す。でも、ゆるやかにほどけた心は、日常に埋め尽くされることはない。客観的なまなざしで、冷静に世界を見つめている。

まだはっきりしない頭でロフトから階段を下りると、表通りに面した格子に下ろしたブラインドに、柳のシルエットが見えた。セミの鳴く声も、聞こえてくる。夕食と一緒に渡されたスープとパンを温めながら、それらに身を浸す。食卓につき、やわらかなパンをちぎり、スープにつけ、口に入れれば、乾いた体に栄養が染みわたっていった。

ゆっくりと身支度を整え、チェックアウトの時間を迎える頃には、私は昨日の自分と同じ姿になっていた。でも、本当は、少し違う。内側に空いた空間には、心地よく風が通っている。そこからは、きっと、予想だにしなかった新しい何かが生まれるのだろう。こんな風に、ことばが、こんこんと。そしてそれがまた、私の日常を彩ってくれるはずだ。

昨日よりも新しく、軽やかな自分自身を感じながら、宿と浅川さんに別れを告げる。そういえば、のんびりするのに忙しくて、サウナを楽しむ時間がなかった。今度来る時は、もっと時間をかけてこの空間を楽しもう。ほてった体を撫でる涼しい風を、思い浮かべた。


取材・撮影・文:櫻井 麻美


『上州屋』
https://joshuya-unnojuku.jp/

<著者プロフィール>
櫻井 麻美(Asami Sakurai)
ライター、ヨガ講師、たまにイラストレーター
世界一周したのちに日本各地の農家を渡り歩いた経験から、旅をするように人生を生きることをめざす。2019年に東京から長野に移住。「あそび」と「しごと」をまぜ合わせながら、日々を過ご す。
https://www.instagram.com/tariru_yoga/

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