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特集『信州歩く観光』❹
先人たちが歩き築いた歴史街道「中山道」を歩く。

長野県・軽井沢町の追分は、かつて中山道の宿場が置かれていました。ここで北国街道が分岐するので、道が左右に分かれるところを意味する「追分」の名があります。この追分に「中山道69次資料館」を構える岸本豊さんを訪ね、中山道の魅力について聞きました。

更新日:2023/09/12

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中山道は庶民が歩いた道、史跡だけでなく自然と人情が残る道。

「東海道が整備されたのは1601年、中山道は1602年です。徳川家康は関ヶ原の戦いに勝って天下を統一してから、幕府より先に道路を整備しました。宿場から宿場へ荷物を継いでいく宿駅伝馬制度をつくり、江戸から京都まで物資を安全に運ぶ仕組みを整えたんです」(岸本さん)

江戸幕府は街道ごとに宿場(宿駅ともいう)を定め、ここに人足と「伝馬」と呼ばれる馬を常備するよう義務づけ、書状や荷物の運搬にあたらせました。人足と馬は宿場ごとに交代して、書状や荷物を次の宿場へと継いでいきます。

中山道には69カ所の宿場が設けられました。荷物を送ることを宿次(しゅくつぎ)と呼ぶことから、宿場につけた番号を「次(つぎ)」といいます。起点の日本橋と終点の三条大橋は含めず、起点から最初の宿場である板橋宿が1次、終点手前の大津宿が69次です。

街道には荷を乗せた「伝馬」が行き交っていた。写真は望月宿の展示。望月は古来、名馬の里と知られた

岸本さんは、その成果をまとめ、2001年に信濃毎日新聞社から『中山道69次を歩く』を発刊しました。そして定年退職した2005年に「中山道69次資料館」を開館します。資料館は1階と2階にわかれ、日本橋(東京)から三条大橋(京都)まで中山道に関わる資料や写真、浮世絵などが多数展示されています。

宿場ごとに自著の該当ページを拡大して掲示し、歌川広重と渓斎英泉が描いた『木曽街道六十九次』の浮世絵と、その絵が描かれた場所を推定して撮った写真を並べることで、江戸時代と現代の風景を対比することができます。

合わせて、さまざまな資料も展示してあります。たとえば和田宿では黒耀石を取り上げ、縄文時代までさかのぼり、歴史を多角的に捉え、理解を深めることができます。「建物ができた時点で完成という資料館が多いですが、ここはそうではなく、1年ごとに充実していくところにしたい」と岸本さんは言います。

その言葉どおり、岸本さんは今も精力的に調査を進め、冬期休館の間は現地取材に赴き、文献を紐解き、資料をまとめています。その成果は着々と更新され、ここが生きた資料館であることがわかります。

展示品はすべて岸本さんが個人的に収集

東京から訪れたふた組の家族連れも一緒に、岸本さんの案内で館内をめぐる

長野県(かつての信濃国)には、18次の軽井沢宿から42次の妻籠宿まで、25の宿場が置かれました。17次は坂本宿、現在の群馬県安中市松井田町にあたります。
「17次と18次の間は700mの標高差を一気に上がります。最初の難所は碓氷峠です。20次はどこよりも高い位置にあって、標高1,000mに位置します。それがこの資料館のある追分宿です」

「街道全体では、和田峠が断然高く、標高は1,600mあります。中山道最大の難所といえるでしょう。峠の頂上は冬は雪で覆われますが、江戸時代の旅人はカンジキを履いて雪道を歩きました」。岸本さんはすかさず、展示されたカンジキを示します。

「長野県の中山道は起伏のある区間で、難所が続きました。東海道に比べれば、自然条件はより厳しく、距離は長く、峠も多い。それでも多くの荷物と人が行き交い、峠道でも4~5mの道幅が確保されていました。碓氷峠や和田峠に行けば、今もそれがわかる場所がところどころに残っています」

資料館の入り口に、中山道の宿場と峠の高さがわかる地図が掲げられている

「宿場の様子をよく残しているのは、奈良井宿、妻籠宿、馬籠宿です」。馬籠宿は、この資料館ができた2005年、全国唯一の越県合併で岐阜県になりました。
「中山道は木曽を通ることが大きな特徴で、別名を木曽街道とも呼びます」

宿場には宿泊施設も置かれていました。本陣は一番格式が高く、大名や公家など身分の高い人専用の宿でした。脇本陣は参勤交代などで宿が足りない場合に使われ、利用がない場合は一般庶民も泊まれたそうです。旅籠は庶民のための宿で、さらに安い木賃宿もありました。

木賃とは、煮炊きをする薪の代金のこと。御嶽宿の浮世絵には、木賃宿と帯に柄杓をさした子どもの姿が描かれています。
「柄杓を捧げてお金を入れてもらったんですね。江戸時代は現代より貧しかったけれど、人の心は豊かだった。お金がなくても、子どもひとりでも、柄杓があれば旅ができたんです。当時の外国人は、そんなことができるのは世界中で日本だけだと感心していました」

「世界史では、一番長く続いた平和な時代をパクス・ロマーナとしています。五賢帝が治めたローマ帝国の時代が200年くらいですが、徳川時代はもっと長く、約260年続きました。世界の歴史を見ても、これだけ平和な時代が続いたのは珍しい。インフラを整えたのが理由のひとつです」

中山道についての解説だけでなく、人との出会いなど取材にまつわる話に引き込まれる

「街道の研究は歴史の人がやるもので、私のように地理的な視野で街道を見る人はあまりいませんでした。伊能忠敬の地図をデジタル化したものと、現在の地形図を重ね合わせて分析することで、江戸時代の道をたくさん見つけることができました」


本来の中山道が新しい道と混同されていることがある——そこで岸本さんは自作の標識を作り、現地へ赴くたびに迷いやすい分岐点に立ててきました。その数なんと230。そのうち4つが東京「神田明神」と「湯島聖堂」の間の小路にあります。

小路に面した「天野屋」という甘酒店の店主に断りを入れて標識を立てると、「この道が中山道だと、よくわかったね」と、店主にうれしそうに言われたとか。後日「もう3つ送ってくれ」と頼まれて送り、3つは道に立てられ、ひとつは店内に置かれました。

交流はその後も続き、店主が家族とともに追分にやって来たこともありました。時を経ずに再び家族旅行で訪れたのが、店主と会った最後になりました。あとになって聞いたのは、がんを宣告された店主が最後の家族旅行の行き先として、岸本さんの資料館を希望したということでした。

「中山道」の標識と、天野屋前の小路の写真

明治時代になると鉄道網が整備されて、宿駅伝馬制度は廃止されました。しかし「中山道はどこも大体残っています」と岸本さん。「奈良時代に作られた東山道は、幅12mもある直線道路でした。政治的につくられた道であって、地域の人の生活道路ではなかったので、廃れてしまいました」

縄文時代からつながる人の暮らしがあって、人が行き交い、道が生まれます。東山道が廃れても、中山道が残ったのは「庶民の生活道路だから」と岸本さんは言います。
「歴史はつながりがあって、急に江戸の暮らしがはじまったわけではない。今も中山道はほとんどが残っていて、現地に行けば、より古い歴史を肌に感じます」

「長野県の中山道は峠越えがあって、起伏が激しくて大変ですが、むしろ歩いて楽しいのではないでしょうか。自然がよく残っていますし、多くの史跡や豊かな自然だけでなく、人情に触れられるのも、中山道の魅力のひとつです」と岸本さんは言います。

岸本さんが木曽郡大桑村の須原宿と野尻宿の間にかかる橋の撮影をしていた時のこと。
「見知らぬおじいさんが私に『ありがとう』と言ってくださる。地元の人が誇りに思う場所を写真に撮っていることを、孫が褒められているように感じたのではないでしょうか。街道を案内しても、みなさん一生懸命話を聞いてくれます。自分たちの住むところに興味があるんでしょうね」

資料館のまわりには、岸本さんが作った散策路「ミニ中山道」が整備されています。まずはここから中山道を擬似体験してみませんか。

〈中山道69次資料館〉住所:長野県北佐久郡軽井沢町追分120 電話:0267-45-3353
https://nakasendo69.sakura.ne.jp/
Google Maps

「ミニ中山道」は看板を見ながらゆっくり回って15分ほど。入り口は資料館を背に左へ進んだ先にある

中山道の難所「木曽のかけはし」を再現。かけはしは橋ではなく断崖に設けられた桟道(さんどう)のこと

岸本 豊(きしもと・ゆたか):1944(昭和19)年、徳島県小松市生まれ。広島大学卒業、鳴門教育大学大学院修了。県立高校で地理を教えるかたわら、中山道の調査に歩く。2005年に「中山道69次資料館」を開館。著書に『中山道 浪漫の旅』東編・西編(信濃毎日新聞社)ほか。

中山道「茂田井 間の宿(もたい あいのしゅく)」を歩く。

皇女和宮も通った道

岸本さんの話を聞いた後に向かったのは「茂田井 間の宿」。長野県佐久市茂田井に残る歴史街道です。
中山道の茂田井は、望月宿と芦田宿の間に位置し、「茂田井 間の宿(もたい あいのしゅく)」とも呼ばれます。本陣や旅籠は置かれず、両宿では対応できない大行列が通過する際に休憩所として機能しました。白壁や連子格子の続く街道沿いには水路が流れ、江戸時代そのままの風情をよく残しています。
中山道は、京都の公家や宮家から江戸の将軍家へ輿入れする姫君の花嫁行列がよく通ったことから、別名「姫街道」とも呼ばれます。東海道ではなく、より険しい中山道が選ばれたのは、往来の多さを避けて攘夷派の襲撃を警戒しやすく、川止めのリスクが少ないから。東海道の地名にみられる忌み言葉が嫌われたとも言われます。

もっとも有名なのは、14代将軍 徳川家茂(いえもち)に嫁いだ皇女 和宮(こうじょ かずのみや)の行列です。1861年(文久元年)10月20日に京を出て、中山道を通り、11月15日に江戸に着きました。その行列は警備や人足も含めれば数万人に上り、通過するのに4日かかったと伝わります。

街道沿いの村や「助郷」という労役を課せられた村は、道や建物の修繕に追われ、人馬だけでなく寝具や食器、食料の提供を求められ、商家や農家まで宿所として使われ、大きな負担を強いられました。

こうした歴史の息吹を残したまま、茂田井には古くからの家並みが残されています。明治時代に集落を避けるようにして新道が設けられ、昭和時代には国道142号が大きく迂回したおかげもあるでしょう。

白い土壁と、黒い連子格子の家並みが残る

道の角に立つ、背丈ほどもある馬頭観音像

武重本家長屋門の正面に、若山牧水の和歌を刻んだ石碑が立つ

和田峠を越えた和宮は、11月7日に和田宿を出発して、茂田井を通過、その夜は八幡宿の本陣に宿泊しました。茂田井では行列に随行する人々の寝食を世話したといいます。
その3年後、1864年(元治元年)11月には、水戸藩の攘夷派で結成された天狗党が中山道を通って上洛を目指し、それを追う小諸藩の兵400人ほどが茂田井を宿所としました。

茂田井は米どころであり、水にも恵まれ、2軒の酒蔵が昔から変わらぬ酒造りを続けています。
「武重本家酒造」と「大澤酒造」が中山道に面して立ち、土蔵や塀など建物群の居並ぶ様が威容を誇ります。白壁の続く道の傍らに、かつての宿場用水が今も流れ、さらに風情を添えています。

〈武重本家酒造〉住所:長野県佐久市茂田井2179 電話:0267-53-3025
https://takeshige-honke.jp/
Google Maps

武重本家16代当主の武重有正さん。酒造りをはじめてから数えれば5代目にあたる

「武重本家酒造」は1868年(明治元年)創業。生酛(きもと)造りの味わいと深い旨みがまとめ上げられた、ボディのしっかりとしたお酒を身上とします。

よき酒と ひとのいふなる 御園竹 われもけふ飲みつ よしと思へり

これは酒と旅を愛し「酒仙の歌人」と呼ばれた若山牧水が詠んだ歌ですが、「御園竹(みそのたけ)」は「武重本家酒造」の定番酒。歌人の名にちなんだ生酛造りの「牧水」も人気です。

「武重本家酒造」の建物とその周辺は、山田洋次監督の映画『たそがれ清兵衛』や『家族はつらいよⅢ』のロケ地となりました。

長屋門の先に立派な母屋が現れる

中門には、昔ながらの酒造りの道具が展示されている

酒林の下がる長屋門をくぐると、立派な母屋が現れます。向かって右手の中門には、昔ながらの酒造りの道具が展示されています。

定休日は中門が閉ざされますが、長屋門から中門手前までは見学可能。ただし母屋は武重さんの住居なので配慮が必要です。中門を通り抜けると、煙突のそびえる蔵が現れます。

煙突は酒屋のシンボル。今は使われていないが、崩れぬよう補強して残してある

天井高のある吹き抜けの空間に数々の賞状が並び、酒林が下がる

蔵2階に設けた試飲室。「御園竹」と描かれた古いガラス絵の看板は、改造して照明の灯る衝立にした

住居や蔵など30の建物が登録有形文化財に指定されています。このうち、もっとも古い蔵の2階が増床・改装されて試飲室となりました。

「改装の際に棟札が見つかって、この蔵が明治4年から5年にかけて建てられたことがわかりました。創業当初の蔵です。2020年に杜氏が交代したのですが、その杜氏が蔵を見てまわり、この空間に目をつけました」(武重さん)

ここでは予約制で試飲ができるほか、「ひやおろし」や「どぶろく」の出荷に合わせて飲み比べや利き酒の会を催していく予定。気に入ったお酒はECサイトで購入することができます。

中山道に沿って蔵が立ち並ぶ。ひときわ高い「大澤酒造」の酒蔵が坂の手前に立つ

「大澤酒造」の酒母室を改装した民族資料館。1階で試飲・販売を行い、2階が展示スペースになっている

屋根が幾重にも重なる大澤家の豪壮な造り

中山道の高札場跡。村の名主を務めた大澤家の塀に、幕府のお達しを告げる高札が掲げられた

中山道に掲げられた散策マップによれば、茂田井間の宿端から端まで1.7km。ゆっくり歩いて30分ほどの道のりです。交通の便は限られ、観光地化されていないからこそ、今の暮らしが息づきつつ、往時のままの街道の風情が、ふんだんに残されています。

JR佐久平駅から茂田井へ向かう千曲バス・中仙道線は、コロナ禍以降、土・日曜と祝日は全休となり、平日の運行は上・下線ともに午前・午後1本ずつ。訪れる際は、やはり車が便利です。

佐久市茂田井区民会館(長野県佐久市茂田井2136-2)の南側に、武重本家酒造が管理する駐車場があるので、利用させてもらうと良いでしょう(ただし駐車の際の責任は追いません)。

木造校舎を活用した茂田井公民館。その前は武重本家酒造が管理する駐車場になっている

公民館に隣り合う諏訪社には、中山道でよく見かける双体道祖神がいくつも並んでいた

中山道沿いに茂田井の散策マップが設置されている。
〈茂田井 間の宿〉住所:長野県佐久市茂田井  電話:0267-53-3025 アクセス:中部横断自動車道 佐久南ICから車で20分、JR北陸新幹線 佐久平駅からタクシーで25分

取材・文:塚田 結子 撮影:平松 マキ

<著者プロフィール>
塚田 結子(Tsukada Yuko)
長野県長野市出身。都内制作会社にて幼児向けコンテンツの企画・制作に携わった後、地元にUターン。長野県の出版社にて月刊情報誌とカルチャー系フリーペーパーを手がける。2011年、元同僚の立ち上げた「編集室いとぐち」に参加。長野県の食・工芸・ワインなど暮らしまわりの企画の編集・執筆と食まわりのスタリングを行う。

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